写真展,映画『カメラになった男 写真家中平卓馬』のあとはシンポジウムに参加.パネリストは比嘉豊光(写真家)・浜昇(写真家)・北島敬三(写真家)・小原真史(写真評論家・「カメラになった男 写真家中平卓馬」監督)・倉石信乃(写真評論家)の5名.
ここでは,パネリストの一人である倉石信乃が自身のブログでも書いているように(関連clip),「写真は”クリエーション”ではなく”ドキュメント”である」という議論に終始した.要するに,写真は"art"あるいは"作品"なのか,そうじゃなくて"artでない記録or記憶(ドキュメント)"と捉えるのかについての話だった(ただし,倉石氏は後日ブログで「私の選択した展示方法が比嘉作品を~」と”作品”と書いてしまっていてこれはピンボケ).
さて,このシンポジウムはとても濃密な時間だったのだけれど,これはこれで写真のアイデンティティに関わる奥の深い問題だなあと思う反面(結果はボウズだったが,帰宅後ドキュメントorクリエーションに関する情報を求め,検索の海をさまよったのも事実だし),まだこんなことにこだわっているのかということも感じた.なんだか勝手に仮想敵を作って挑んでいくような気がしたのも確か.こういう議論って,写真はアナログかデジタルかというのに似てる気がする.写真という世界にどっぷり漬かり,集中してるからこその議論だとは思うけど,傍観者から言わせれば,そんなのどっちだっていい.極論すれば,写真をはみ出して,その結果,それが写真と言われるものじゃなくなったっていいじゃないかと思った.
以前,小林のりおが自身のブログで次のように書いている.
いつの間にか「写真」が既存のアートシーンばかりを気にするようになって、美術市場という名の陳列棚に並ぶことが目標とされるような昨今のあり様にはウンザリしています。いつの間にやら違った道を歩いていたなら、引き返す勇気も必要かもしれません
と書いていたが,写真を"クリエーション"ではなく"ドキュメント"とする心象はこれの裏返しなのだろうか.
そういう意味では,内原恭彦が自身の写真集について,
作品集Son of a BITは、コンピュータ関連やアートやマンガの棚にならべてほしい
と写真集とかアートの棚じゃなくて,マンガなどのサブカルの棚の中に陳列されたいと書いていたが,この感覚の方がより共感できる(これは彼が写真を撮り始めて歴史が浅いということに関係があるのかもしれないけど).
こういった写真業界人の集まるシンポジウムというのを聴いたのがはじめてで,その狭さというか純潔具合に恐れおののいたせいがあるのかもしれないけど.中平卓馬を追った映画といい,このシンポジウムといい,久しぶりに知的興奮を覚えた一日だった.
という戯れ事,というか桃をtumblr.で流したら,ここでも書いたdannna_oさんが次のようなことをつぶやかれていた.
写真はドキュメントかクリエイションかなんてそういうコトにこだわるのは、当事者には悪いがかなりのDT臭がする。土門拳 vs 木村伊兵衛の昔からちょくちょくいわれている問題だしデリケートなものではあるんだろうけれども、排他的にその二つを峻別することにそれほどの意味はないと漏れは思う。撮影者の意図はどうあれ、見たもののこころに何かの意識の変化を与えたならそれは少なくとも「表現」であって、もはや伝達や記録ではあり得ない。記録はひもとかれた瞬間にもはや記録ではあり得ない。そんなドーテー臭いことを雁首そろえてあつかっている場合じゃない。自戒も込みでいえば、写真家なんてガーリーにもほどがある。
(via dannna_o Blog)
確かに,ナイーブ.純文学的,純潔,童貞.そういう言葉が浮かぶ.そういえば,写真とは?ってことをしかめっつらで延々と議論した挙句,なんだか浮いたネエチャンに「好きな女性のタイプは?」と質問されて,一同ドギマギしてたっけ.もしかしたら,そういったプリミティブな感情というものを沖縄に持っているということなんだろうか.沖縄絡みだったからそういう意識が高まったのかもしれない.
そういった沖縄に対する塩漬けされた概念を引っ張り出して,意図的に周回遅れを狙ったのだろうか.だから”写真0年”つまり”写真童貞”か.というのは読みすぎなんだろう.
質問タイムで延々と口角唾を飛ばしながら執拗に”クリエーション”or”ドキュメント”問題に突っ込みを入れまくる男や,そんな濃い雰囲気を「好きな女性のタイプは?」という質問でパッカーーーンとばかりに真っ二つに割ってみせる女など,写真業界の奥深さというか,魑魅魍魎具合に恐れ入った一日であった.それにしても「好きな女性のタイプは?」ってお見合いの席上じゃあるまいし.新手の吊りなのか.
- Related links:
- 写真0年 沖縄(公式ブログ)
- dannna_o Blog
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- 『カメラになった男 写真家中平卓馬』
- tumblr. post #1
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- 『カメラになった男 写真家中平卓馬』
真面目な話、この映画の後に
>「写真は”クリエーション”ではなく”ドキュメント”である」という議論に終始した.
という展開は「マジですか!」ですね。まさにyanzさんのおっしゃる、どっちでもいい。の一言に尽きるでしょう。
それにしても、写真業界の狭さ、おっさんらのDT臭さ(dannna_oさんは率直でイイですね)、外野から見ていたのでは解らなかったアレコレが「やっぱりな」という感想とともに垣間みれて興味深いエントリーでした。
オネエちゃんの質問で会場が一瞬静まり返りましたよ.パネリストの回答もそっけないものでしたね.でもそのオネエちゃんもまじめに質問してたようだったのでトホホな雰囲気になってました(笑)
本文ではああやって書きましたが,写真をやってる人はやはり写真に思い入れがあるのは,ある種当然ですね.まぜそこまで惹きつけるのか.撮影術だけでなく,歴史や流れとかをもっと知りたくなったのも事実です.
わたしも「どっちでもいい」派です。
というか、写真ってそんな議論そのものが成り立たない世界なんだと思うんですが。
オネエチャンはKYだったのか、それとも議論を空疎に感じて終わらせたかったのか。
グローバルな視野だとか言ってる世の中で「どっちでもいいことにこだわっているカッコいい感」プラスチックのおもちゃみたいな幼さだけれど、可愛いし面白いなと思いました。
写真にも連綿とつながる歴史というのがあるようなのでそれに繋がっていると考える写真家ほど写真に対してまじめすぎるほどの態度で接するということでしょうか.ケータイで撮ったのも写真ですし,身近なようですが奥深くもあるようです.
> 「どっちでもいいことにこだわっているカッコいい感」プラスチックのおもちゃみたいな幼さだけれど、可愛いし面白いな
肯定も否定も飲み込んだこの言葉は,うめもも☆さんらしいなあと思いました.
深く知らない自分のような者がウンチクを聞けば聞くほど「どっちでもいいやん!」となるのだけれど,それって何も知らないから言えることであって,もっと知ったら違うように考えるかもしれないなあと思ってます.