tumblr.経由で上の記事を知った.
最近ティーンエージャーの間で隆盛を極めているらしい「ケータイ小説」についての記事である.最初に断っておくが,私自身は,「ケータイ小説」というものは読んだことはない.したがって,どういうものであるかというのは,専ら他の情報によっている.
上記記事を一読したときは,突き抜けたセンスに感心するとともに,体の中に妙にザラザラした感触があった.知らないそぶりをしたかったくらいに.ただし,その感覚とともに,強烈な違和感があったのも事実.その違和感の素になるものを,tumblr.の記事に残した.それをここに残しておこうと思う.
パンクが世間に現れたとき、大人は「あんな稚拙なものは音楽ですらない」と言った。
テクノポップが世間に現れたとき、大人は「あんな血の通っていないものは音楽ですらない」と言った。
クラブミュージックとしてのテクノが世間に現れたとき、大人は「繰り返しだけでメロディーもない、これは音楽ですらない」と言った。
小学生が書いたかのように稚拙な文章。
ただ泣かせる為だけに考えうるだけの不幸を並べ立てた不感症のような展開。
どの本もセックスとレイプと病死が判で押したように繰り返される構造。
そうなのだ。これは紛れもなく文学のニューウェーヴなのだ。
30を過ぎた俺がそれを認めたくないだけなのだ。- ケータイ小説を理解できない人間は既に老害化しているという衝撃の事実 - Aerodynamik - 航空力学
上の文章では,「ケータイ小説」の先進性(ニューウェーブ性)を語るのに,ポピュラー音楽が例として持ち出されている.しかし,おかしくないか.音楽や絵画などの五感を使って直接感じるような芸術と,その意味を頭脳で一旦咀嚼してからじゃないと理解できない文学を同列に語るのは無理がある.なぜならば,人間の中での処理方法が全く違うので,結果として,対象物に対する感動や評価が決定される道筋が,両者では異なるからである(ただし,書道などの文字を使ったアートや絵本などのような文字と視覚情報のコラボは除いている).
音楽や絵画はより感覚的なものであるの対し,文学はより解釈的なものなのである.そして前述したように,文学は記述された文章の内容を理解しないとはじまらないものだから,その文章そのものの質や,ストーリーやプロットによって,おのおのの作品が評価されるのは間違いない.これについては,こどものもうそうblog | ケータイ小説を理解している人をニュータイプとか言う人間は既に老害化しているという衝撃の事実 で詳しく説明されているし,何を隠そう,上で引用した文章にも,「小学生が書いたかのように稚拙な文章。
ただ泣かせる為だけに考えうるだけの不幸を並べ立てた不感症のような展開。」と,書かれている通りなのである.
さて,今までは紙に印刷された状態だった小説が,ケータイのディスプレイに映し出されることによって新しい感慨を生み出すことがあるだろうか? どうも”YES”とは思えない.もし仮にそれが”YES”だったとしても,それはどの小説にもあてはまるはずであり,メディアそのものの問題に帰結されるのだから,稚拙な「ケータイ小説」だけがその恩恵にあずかれる訳ではない.ケータイ向けに文体を変えるという部分はあるにせよ,それとて,いままでの小説のスタイルを語ることと何ら変わりがなく,それが「ケータイ小説」の傾向であったとしても,先進性ではない.
出現当時,パンクは稚拙なものと捉えられたのは確かだと思うが,同時に,そのスピリット的なものの音楽への表出や純粋に音楽的な荒々しさやスピード感などが評価されたのもまた事実である.それに対し,小説というのは,さっき述べたように,どう考えても文章の質やストーリー展開以外の評価軸を持っていない.そんなものがあるなら,それを具体的に示すことだ.ただし,残念ながらないはずだ.早く読めるからスピード感があるなんてことはないだろうし.
俺達が「あんなひどい代物w」と決め付けたものから、あいつらは普遍的な「リアル」を感じ取れる感性を持っているんだよ。
俺達にはもう理解できない、想像することすらできない世界に、あいつらは進んだんだ。- ケータイ小説を理解できない人間は既に老害化しているという衝撃の事実 - Aerodynamik - 航空力学
ただし,この文章には参った.「ケータイ小説」がこれにはあてはまらないことは確かだが,いつかはこう思うときがくるのか.最初に感じたザラリとした感触は,ここにある.