今回この記事を書くことになったトリガーは,いつも拝見しているWattsuさんの ヒマジンWattsuのどこまでいくの?:「頑張る」ということ というエントリーでした.そこには,次のように書かれていたのです.
『「頑張る」なんてことを、やたら無闇に考えたり、口にしたり、実行してはいけない。
「頑張る」という言葉は、本来そんなにいい意味ではない。いま広く使われている「頑張る」という概念は、欧米では存在しないはずだ。』*1
日常生活の、「頑張る」という言葉の乱発の中で、
無意味に、自分を激励しすぎようとしていないでしょうか。
そうしていく中で、自分の人生の立ち位置を見失い、つまずく危険にさらされたことはありませんか?
- *1
- Wattsuさんの知り合いの言葉ということで引用されていたもの
私は,”頑張る”という言葉は嫌いです.脊髄反射の部分を多少含んでのコメントだったのですが,常日頃から「頑張る」「頑張れ」「ガンバレ」という言葉に違和感を持っていたので,そのことを率直に書いたつもりでした.
ですから極力口に出さないようにしています.特に,自分以外に向っては言いたくないです.励ましという意味に限定すればいいのでしょうし,世間ではそういった軽い意味で使われているのでしょうけど,どうも抵抗があって使えません.
なお,アメリカ滞在時に,日本滞在経験のあるアメリカのエンジニアは,日本語の”頑張る”の代わりに,"FIGHT"や"GUTS"という単語を使っていたのを覚えています.個人的には,一番しっくりするのは,"Do your best"ですね.でも,これはポピュラーな言葉ですが,”頑張れ”みたいに,気軽には使われていないと思います.
アメリカならそんなとき,"Good luck"ですね.こちらの方が,”頑張る”よりずっといいですよね.
どうして嫌いなのか?なぜ違和感を持つのか?相手を励まして何が悪いのか?
この言葉が嫌いだという方がよく口にする理由としては,「言われた本人は,一生懸命やってるつもりなのに,それを頑張れと言われるのは,腹立たしい」というものがあります.これも理由の一つなのですが,これはあくまでも自分が言われた時のことを言ってる訳です.コメントの中でも書いたように,私個人としては,言ってくれた相手はどういう意味で言っているにしろ,自分に対し,気を遣ってくれていることは理解できるので,感謝はすれど,腹を立てるということにはつながりません.ただし,全ての人が自分のように感じるかどうかは別の問題です.
それから,これもコメントに書いたことですが,自分が「頑張れ/ガンバレ」と言われることではなく,相手に向ってそのように言うことに対して,とても抵抗があるのです.先に述べたように,”言った相手は一生懸命頑張っているのに失礼”というのはあるのですが,なぜかそれだけでは,この違和感を説明しきれてない気がし,そのもどかしさを長い間,ずっと感じていたのです.
先日,NBonline(日経ビジネスオンライン)に『ここが変だよ日本の管理職』『やっぱり変だよ日本の営業』などの著書である宋文洲さんの 宋文洲の傍目八目:いじめが自殺につながる日本の「空気」 という記事を読んで,「これだ」と膝を打ちました.いじめを苦に自殺した岐阜の少女の話に関連して,次のように書かれていたのです.
岐阜の少女が残した遺書に、すべての大人に対して重要なメッセージが残っていました。それは遺書の最後にあった「もう、何もかも、がんばる事に疲れました」の一言です。(中略)「頑張る」は聞こえがいいのですが、僕にしてみれば要は「我慢する」ことです。(中略) 岐阜の少女の遺書にあった「がんばる事に疲れました」は、「我慢することに疲れました」と理解すべきです。ここの「がんばる」は決して前向きに努力することではなく、後ろ向きに我慢することなのです。
子供社会で起きていることは、大人社会にもあります。日本の企業の中でも「頑張る」を最優先する風土は今も残っています。内部から不正をなかなか指摘できない理由は仲間同士が仲良くするのは最大の美徳であり、仲間の不正を告発することは密告とされ、密告がばれると村八分にされてしまいます。日本は人材の流動化が少ないため、一生の裏切り者の烙印がついてしまいます。だから、自分の信念を曲げてでも、目の前の社会に同化することに頑張り続けるのです。「頑張れ/ガンバレ」という言葉に感じていた違和感は,これだったのです.根性見せろ!同化しろ!ということに覚えた違和感だったのです.
子供だけに限らず,自分(たち)とは違うものに対し,仲間はずれにするということがあります.悲しいかな,同質であることをよしとする日本人には,その傾向が強くあります.「頑張れ」という言葉は,その傾向が無意識に現われた言葉なのでしょう.
補足:
今日一日,自転車に乗りながら,このことを考えていました.言葉足らずだったかなあと思いつつ,帰宅したところ,奇しくも考えていたことに関連したコメントをいただいていたので,ここで補足します.
”頑張れ”と言った側がそれを意図しているかどうかは別にして,言われた方にとっては,程度の差こそあれ,”根性を見せて,成し遂げろ”と言われていることになるのは,その通りではないでしょうか?結果的には,その人を追い込んでいる訳です.”追い込んでいる”という言い方がきつければ,”相手にプレッシャーを与えている”あるいは”相手にストレスを与えている”でもいいです.宋さんは,それがいじめられている子を自殺に追い込んだ要因だと主張されているのです.もちろん,それを励みに力を発揮する人もいるでしょう.それは否定しません.それから,自分に対して”頑張れ”と念じる分には全く問題ないです.力を発揮できるかどうかは別の問題ですが,少なくとも好きでやっているのですから.要するに,自己責任ということです.
問題は,それが同質化を迫っているかどうかということです.これについては,少しばかり飛躍した書き方だったなあと反省しています.言いたかったのは,誰も彼も”頑張れ”と相手を追い込むような言い方しかできないということ,そのことそのものが同質化されたステレオタイプなメンタリティから発せられているのじゃないかと言いたかったのです.その深層心理には,”みんなも頑張っているんだから,お前も頑張れ”というものが透けて見えるような気がするのです.
アメリカでこういうときに,そのように表現するかですが,"Do your best" や "Good luck" 以外に, "Take your time" という言い方もよく聞きました.要するに,”あせるな.落ち着いてやれ”といった意味です.似た言い方としては,"Take it easy" や "Easy" というのもあります."Do your best" には多少感じられますが,アメリカにいる間,相手や自分に過度のプレッシャーを感じさせる言い方を耳にしたことはありませんでした.場面によって,あるいは,人によっては,そういう言い方をされることもあるのでしょうけどね.でも,それもあくまで一つのケースです.言い方は,ケースバイケースで沢山あるのです.
”頑張れ”にこういった意味が全て備わっていて,言われた側が自分に都合がいいように,うまく感じ取ってくれるならそれでいいかもしれませんが,そういったことは機能しなくなってきています.
時と場合によっては,”頑張れ”という言い方が最適なケースもあるでしょう.でも,そうでないケースも沢山あり,それだけではいろんなケースや人に対処しきれないということが言いたかったのです.
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個人的には「頑張る」には『自分で納得できるように』みたいなのを無意識に上につけていますのであまり違和感を感じませんでしたが、一般的には確かに「一丸となって頑張る」とかそういう風に使ったりもしますしね。
ただ、「good luck!」となるのも個人的には気取っているような印象でちょっと違和感を感じます^^
一理あるとは思いますが・・・、わたしには、
どうもしっくりしないお話にも感じます。
わたしは、自分に向かって心の中、
“頑張れ!”と言っていることが多いです
し、人に向かっても自分に向かって言って
いる時と同じ気持ちで、“頑張って”と
言います。
“同化しろ”などとは、全く無縁な気持ち
の持ちようですし、そんなこと考えたこと
もありません。(わたし自身、生き方も
個性的ですし・・・)
成し遂げることや、負けないこと、努力
することへの応援的意味合いであると
思っています。
(元々は、“我を張る”からきてますから、
自分を強く持つ意思が転じて、負けない
という精神力に繋がったものだと思い
ます。同化するとは、真逆の意味合い
から元々はきていると思います。
“根性”には関わるでしょうが、前向き
な精神力のものだと考えます。)
例えば、子供達に、親や先生が“頑張れ!”
と言う時、おっしゃられているような
気持ちで言っている人、どれくらい
いるでしょうか?そんな気持ちの方が
少数ではないでしょうか・・・?・・・。
言葉の捉え方も人それぞれなのでしょう
が、もう少し、人の心の持ちようなどに
対する意識を前向きな捉え方をすること
が、逆の捉え方以上に今の社会、必要
にも感じます。
いじめなどから、死に至ってしまうような
ことをなくすためにも。
Good luckは,言われた側からだと,気持ちだけもらっとくよという感じで,あまり言われても関係はないような気がしますね.無責任に聞えますが,言った側としては手を貸すこともできない場面ではどうすることもできないのでそうとしか言えないでしょう.
コメントに対する回答になるかわかりませんが,言葉足らずでしたので補足を付け足しました.
記事には書きませんでしたが,いじめがこれほど問題になる前に,NHKのラジオで聞いたことです.その番組で登校拒否の子供を持つ親からの相談に対し,その道の専門家が答えておられました.登校拒否の理由はいじめということでした.専門家の答えは,親としてはなんとか学校に行ってもらおうと試みるのですが,そうではなく,逃げ道を用意しなさいということでした.”嫌になったらいつでも学校に行かなくてもいいんだよ”と.この例では,”頑張って学校に行きなさい”は,事態を悪くするだけなのです.
補足にも書きましたが,”頑張って”がフィットする場面もあるでしょうけど,そうでない場面でも”頑張って”で済まされていて,それは必ずしもいい結果になっていないということです.
(こちらのblogからのTBができなくて申し訳ないです。)
軽々しく使われる一つの言葉が与える影響について、少し議論のできるいい機会となったようで幸いです。
yanzさんは、主に他人にかける「頑張れ」という言葉の効果について、疑問を持たれているようですね。
長くなりますが、感想を書かせてください。
第1に、「相手に向ってそのように言うことに対して,とても抵抗がある」ということについて。
:おっしゃる通りかと思います。確かに、時にはさらなる高みへ向けてジャンプアップすべく、「頑張れ」と激励した方がいいタイミングというのもあるとは思いますが、常にこの言葉を軽々しくかけるというのは、懸命にそのことに取り組んでいるのに、自分の身の丈をあまりに超えて背伸びすることを強制しかねないという危険があると思っています。
これが、言葉の受け取りようによっては、結果として自分の立ち位置を失い、つまずく原因につながりかねないと、心配しているのです。
第2に、岐阜で不幸にも自ら命を絶った少女の遺書の、最後の言葉について。
:自分のblogでも書きましたが、「頑張る」の日本語からの解釈アプローチのうち、「眼張る」→耐える、我慢する、という考え方については、それほど否定的な見方をしていませんでした。
我慢としての頑張るという行為は、後ろ向きに見えるかもしれませんが、人間、生きていく上で必要なことと思っているからです。
しかし、岐阜の少女の身の回りで起きていたであろう(これはあくまでも部外者なので、推測と想像で議論せざるを得ませんが)事態は、自分自身の精神的肉体的耐力、強度を遙かに超えるものだったと思われ、それほどのストレス、プレッシャーに対して、「頑張れ」と忍耐を強制することは、自殺に追い込んでしまうことにもつながりかねないと考えます。
そういった事態を理解して、周りは「頑張れ」と声を掛けていたのかどうか?(脱線するようですが、注意しなければならないのは、直接的に「頑張れ」と言っていたかどうかだけではなくて、少女自身が、どんな事態にもかかわらず、「頑張っていかなければならない」と、一人で我慢を続けていたかもしれないということです。しかしこれも、まだ人間的に幼い少女に対し、常に何があろうとも、「頑張る」生き方を強いてきた周囲の教育者たちの指導の結果と見ることもできます。)
第3に、yanzさんの一番の論点、「同化」論について。
:団体主義、集団主義が極度に高まった集団(極論的な例として、15年戦争下の帝国主義日本社会)においては、「頑張れ」、「頑張ろう」というスローガンが、集団の絆を高めるツールとして使われているのは事実だろうと思います。
ただ、それが直ちに逆の、宋文洲さんのエッセイに代表される理論、「頑張る」風土=同化強制、につながるのかという点については、正直ピンときません。
この点については、同一民族で、同質的なものを求めがちな日本の島国文化というものをもう少し勉強してからコメントしたいと思います。
いずれにしても、自分のblogの繰り返しになってしまいますが、「頑張る」、「頑張れ」という言葉が軽々しく使われることによって、必要以上に自分自身のキャパシティを超えた努力を強い、結果的に自分を崩壊させてしまうことへの危惧を、自分のblogを通じて発信してみたつもりです。
yanzさんがこの記事の一番最後に書かれているご意見。「時と場合によっては・・・」に対しては、非常に賛成です。
常に考えながら言葉を使うというのは、さすがに難しい話ですが、言葉の意味というのは、よく理解した上で使うべきなんだろうなと思います。
大長文で記事を汚してしまい、大変失礼しました。
幼稚園〜小学校といじめを受けていたんですが、↑で言う「逃げ道」は親も先生も用意してくれませんでした。
なので、自分で行かないという「逃げ道」を選択したんですが・・・(笑)
いま振り返ると笑い話にもなりますが、当時はとても辛く、行かないという選択は自分では正しかったと思います。
専門家の言う事だからではありませんが、この場合の「頑張る」というのは、たしかに微妙ではありますね。
しかし、言葉ひとつで人それぞれ感じ方って違うんですね。
実は私も、以前は「頑張れ」「頑張ろう」が嫌いで、一切使いませんでした。人に投げかけるには、無責任な言葉だと感じていたからです。実際私が中学生の頃にその言葉を投げかけられた時に、無責任な励ましだな。と感じたからです。でも、ある時「投げかけた相手にしてみればそうじゃなかったのかもしれない」そう思うコトがあったのです。うまく言えませんが…私自身が相手を想って想って、励ましの言葉を心の中で探した時、一周まわって「頑張って」が出てきたんです。そんな「頑張って」もあるのだなと。それからは、人からの「頑張って」も素直に受け止める事が出来るようになりました。
結局、素直になれていなかったのかな…すねて、ひねちゃっていたのかな?なんて今は思います。
なんにせよ、人からの励まし、好意の言葉を、素直に受け止められていなかったわけですから、問題はもっと心の奥底にあったのだと思います。
今回yanzさんは大人として「頑張れ」という言葉について考えられたわけですが…もうそれ自体が、素晴らしいコトだと感じました。私たち大人は責任を持って子供たちの未来を深く考え、行動するべきだと思います。
思いが伝わってくるコメントありがとうございました.まとめていただいたようで恐縮です(^^)
言ってる側には,全く悪気はないのですよね.ある意味,言いがかり的に感じられる部分もあるのを理解した上で書きました.個人的に,多様性のなさというか,悪い意味での島国根性みたいなものが嫌いなのでこういう書き方になったのかもしれません.挨拶表現ではあるまいし,猫も杓子もってのが好きではないのです.
それから,第2に書かれた,「我慢する」ということですが,日本においては,我慢することは,当たり前で美徳とさえ言われます.でも,過度の我慢が必要なのでしょうか.我慢できる人であれば問題ないのでしょうが,弱い人,特に,子供にそれを強いる必要はないのではないでしょうか.しつけとして,そういうことをさせることは必要だと思いますが,それも相手によりますね.ことほど左様に,頑張れ一点張りではダメなのです.”頑張れ”に,”頑張れ(A)”から”頑張れ(Z)”まで種類があって,なおかつ,”頑張らなくていい”というものもあって,時と場合でそれを使い分けるのならOKなのですが,現実には,”とにかく頑張れ”の一つしかないのです.
”嫌になったらいつでも学校に行かなくてもいいんだよ”というのは,目から鱗でした.
そうですか.TKさんもですか.貴重な,そして辛い体験談を書いていただき,ありがとうございます.
世の中には強い人や弱い人様々です.強い人には,”頑張れ”でいいのでしょうが,弱い人や精神的に発達段階の子供にとっては,その言葉で追い込まれる場合もあるということですね.言われるように,大人になれば,なんであんな些細なことと笑っちゃうようなことでも,俯瞰でものを見ることのできない(対比するものが少ない)子供にとっては,そのことが全てだったりしますよね.
上のコメントの回答にも書いてるけど,言ってる側には,全く悪気はないというのは,そうなんだよね.誰も悪意を持って言ってる訳じゃなく,好意をもって,相手のことを思って言ってくれてる言葉なんだよね.それはわかるんだ.だからそういう人にとっては,ある意味言いがかりかもね(^^)
昔のうめももさんみたいに反発できるのは,ある意味,強い人だと思う.でも,世の中そういう人ばかりじゃない.頑張れと言われることで,子供や素直な人,弱い人ほど(うめももさんが素直じゃないと言ってる訳じゃないよ),もっとやらねばと追いこまれ,場合によっては,我慢しなきゃってことになる.それが限界を越えると悲劇にね.だから,無意識に追い込むことだけは避けたいなあということだよね.
ずいぶんたってしまいましたが、少しつけ
加えておこうと思いました。
ある仲良くしている中学生の女の子が、
最近の報道などで“学校へ無理して行かな
くてもいい、がんばらなくていい”と
言っているのをTVで見て、言ったことです。
「行かなくていいって・・・、それって、結局
、先生も誰も何もしてくれないんだ・・・」
わたしは、言葉の問題ではないと思って
います。その言葉をどんな気持ちで発して
いるか、そして、どんな気持ちで受け止め
るか、そのことがよほど大事だと思います。
そして、最近の“頑張らなくていい”は、
どうかすると、大人の究極の言い訳に
なりかねない傾向があり、これが蔓延して
しまうのは、危険だと感じています。
まじめに物事を突き詰めてしまう、一生
懸命な子供ほど、頑張らないで解決できる
問題などないことを悟っています。
その上、大人社会をものすごくよく観察
していて、動いてくれない大人達が、どう
やったら動いてくれるのか、・・・その結果
が、文部科学省という上からの圧力を
使おうという危機せまる行動につながって
いたりもするのではないでしょうか・・・。
“わたし(ぼく)は、頑張りたいのに、
頑張れない環境をなんとかしてほしい”。
子供達が本当に望んでいることは、
学校へ行かなくていい、頑張らばなくて
いい、そんな言葉ではなく、大人の行動
です。
わたしはやはり、素直に“頑張ってね”と
子供達にも言える社会であってほしいし、
“頑張ってね”という応援を素直に受け
止められる心豊かな社会をつくるために、
今、がんばらなければならないのは
大人であるわたし達なのだと思っていま
す。
大人達が今、目をそらさず“頑張る”
ことを、子供達が試しているようにも
思えてしかたないのです。
社会へ出ればますます、頑張る気持ちが
なければ物事は解決できません。
本当に子供の将来まで考えて思うなら、
あきらめてしまう心を育てないことを、
大人が示すしかないのだと思います。
最初に言っておきますが,相手を気遣って,言葉を掛けることは素晴らしいことだと思います.それを否定している訳ではありません.
Rinさんの言われている「頑張る」ということが何を示しているのが,あまりにも抽象的過ぎてわかりません.”頑張る”という言葉だけが一人歩きしているのじゃないでしょうか? これは言葉の問題ですが,言葉には背後には潜む気持ちを含められて,発せられているはずです.その気持ちがよくわからない.
”ベストを尽くす””一生懸命にやる”という意味だとして,私は「頑張る」ことを必ずしも素晴らしいことだとは思いません.”頑張ること=苦労すること”に思えるから.うまく表現できないですが,「頑張ら」ないでうまく行けば,それでもいいと思っています.
またどうどう巡りになってるような気がしますが(^^),それもこれも「頑張る」というのがどういうことを言ってるのか,期待してるのかわからないからなのです.上に書いた”ベストを尽くせ”云々だけでなく,「結果を残せ」「成功せよ」ということ言ってるのでしょうか?よくわかりません.なんだか,それこそ掛け声だけになってる気がするのだけど.相手に必要なのは掛け声ではなく,もう少し具体的な方策じゃないのかなあ.
いじめというのは子供の世界,大人の世界,日本だけでなく,どこの国に行ってもあることなんだと思います.それにこれは,人間が自己を持っている限り,なくならないものだと思います.なくなるよう努力はすべきだとは思いますけどね.
その中で日本は自殺者が多いと聞きます.それは,平和で豊か過ぎて目標を見失いというのではなくて,精神的に追い詰められてだと思います.直接的ないじめだけが原因ではないと思いますが,なんらかのストレス,プレッシャーがそのように追い込んでいるはずです.
それは,出たクイは打たれ,個性をヨシとしない日本の社会に問題があると思います.
「頑張れ」というのは一つの例えです.法律で「頑張れ」使用禁止と決めても,何も解決しません.言われるように言葉だけの問題ではありません.私は,皆が「頑張れ」といい続けることの裏には,プレッシャーを与え続ける社会,失敗を許さない社会,弱者を救えない社会,異端なものをヨシとしない社会があるのでないかと思っているのです.だって,他の国にはこれにあたる言葉はないのですよ.便利な言葉の上にあぐらをかいてきてないかということなんです.
>「行かなくていいって・・・、それって、結局、先生も誰も何もしてくれないんだ・・・」
今の教育制度や学校,先生のあり方に大きな問題があるのは確かですし,それはよくしていかないといけないと思います.でも,先生と言っても結局は他人です.弱い子供を守るのは,親や家族です.子供が追い込まれれば,守るのは当然ではないでしょうか?もちろん,全ての子供が追い込まれないようになればいいでしょうけれど,前述したように,いじめはなくならないと思いますよ.特に,同質を求める日本という国ではね.